語り継ぐ錦

KYOTO NISHIKI

「口に入るものは、なんでも売れた。」 vol.1:終戦直後の錦市場を語る。

「語り継ぐ錦」の第1回目は、錦市場に長く関わる皆さんにお集まりいただき、古い時代の錦市場を語っていただいた。

(五十音順)
京都錦市場商店街振興組合 代表理事会長

株式会社 桝俉 代表取締役会長 宇津克美さま

京都錦市場商店街振興組合 監事
株式会社 桒藤(くわとう) 代表取締役社長 桒山 貴さま

京都錦市場商店街振興組合 元副理事長
株式会社 島本海苔乾物 島本裕次さま

京都錦市場商店街振興組合 理事長
有限会社 のとよ 代表取締役 三田冨佐雄さま

古い時代といっても、今回お話しいただいたのはおよそ75年前。太平洋戦争終戦直後の話が中心になる。

400年以上続く錦市場の歴史からすると、ごく近年のことになるのかもしれない。それでも、当時の錦市場を知るひとがだんだん少なくなっている現状では、語り継いでおきたい貴重な話である。

宇津会長は現在83歳、終戦時は小学校の1年生。疎開先から帰ったばかりだった。
島本さんは宇津会長の2学年上、小中学校の先輩にあたる。三田理事長はお二人より少し若く80歳。太平洋戦争開戦前年の生まれである。
桒山さんは最年少で69歳。この中では唯一戦争を知らない世代である。

向かって左から島本さん、宇津会長、三田理事長、桒山さん

4人の世代にとって、“古い時代の錦市場”の話となると、終戦後の話になる。戦中の錦市場のこととなると、年長の島本さんも宇津会長も疎開先に暮らしていたので記憶にはないという。

ただ一人、当時まだ幼稚園児だった三田理事長は疎開しなかったので、発煙筒を焚きながら焼夷弾を拾って投げる訓練をしていたことを覚えているという。

ちなみに記録(錦盛会創立百周年記念誌「錦の百年」)によると、太平洋戦争に突入以降は物資の協定価格、公定価格制度、さらには配給制度となった影響で日本中の商業そのものが存在しない状況となり、錦市場も開店休業の事態が10年以上続いたとある。

戦争が終わり疎開先から帰ると、錦市場の風景はまったく変わってしまっていた。

「終戦直後を描いた映画で目にするように外人が日本女性を連れて闊歩していた」「その女性からチョコレートやチューインガムをもらって嬉しかった」「日本のチューインガムはすぐに千切れるが外国のチューインガムはいつまでも噛むことができて、そのうえ美味しかった」「捨てるのがもったいなくて紙に包んでおいてまた食べた」「1週間くらい噛んでいた」など、まるで笑い話のようなことを年長のお二人が思い出として話してくださった。

取締りに引っ張られると、役員がもらいさげに行った。

戦後の大混乱に乗じて日本全国に闇市が乱立し、生活物資を求める人々が山のように集まった。
すぐに錦市場にも闇市景気の波が押し寄せた。当時から「錦市場は産地と直接取引をしていたので、全国から物資が集まってきた」「錦市場は産地と接触があったのでものが入りやすかった」背景があった。
「店頭に商品を並べると行列ができ、飛ぶようにものが売れていった」という。

それこそ、「口に入るものなら、なんでもよかった」「口に入るものは、なんでも売れた」というような状況だった。

「錦市場の路地ではお握りまで売られていた」という。「錦市場には産地との縁で食料がたくさん入ってきていたが、闇の商品ではないかと要らぬ疑いをかけられ取締りがやってくる」「無理やり引っ張られたら、当時の組合の役員が頭を下げてもらいさげに行った」そんな状況だった。

「全国から産物が集まり富小路あたりは人が溢れ、闇の冷蔵庫まで売られていた」「ものが届くと奪い合いで、やがて店が増えていった」「中には危ういテキヤも多く、相当ヤバイ目にも合いながら当時の組合役員らがテキヤを寺町から新京極まで追い出したことが当時の新聞に記事として載った」という。

「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の闇市取り潰し政策により、錦市場が闇市(ブラックマーケット)と間違われたことがあった」「錦市場は危うく取り潰されるところであったが、組合の役員が再三にわたり錦市場の歴史と価値を説明する請願を行い、錦市場の存続を認めさせた」という話も残っている。

古い時代の錦市場(年代不詳)
昭和初期の錦市場

産地との付き合いがあったから、混乱を乗り越えられた。

戦争前後の時代のお話としてこんな話を聞くことができた。

宇津会長「戦時中は統制経済で中央卸売市場も閉鎖されていたので、“サンポウ(漢字は不明)”という名の会社をつくって商品を仕入れて軍事工場など、それこそ京都に一手に納めていた」

三田理事長「シジミや生きた魚が入ってくるので、それを統制場で売っていた」

島本さん「言葉は悪いけど、とったもん勝ちの時代だった。うち(錦市場)には全国の物資があったので儲けることができた」

桒山さん「古くは桂川の船着場に三十石船が運んできた魚が上がっていた。そして、大八車に乗せて市内に運んでいたと言います。いまも、魚市場の碑が立っています。余談ですが、鉄道ができて船が廃れて、それで先祖が錦市場に出てきました。明治の終わりの話です。戦争のころ、うちの店は魚屋の代表みたいなことをしていたのでうちに全部入ってきて、それを切り身にして配っていたと聞いています。魚は“カツギ”が多く来ていたそうです。淡路島などからカツギと言われる行商の人たちが直接売りにきて『渡半さん』のあたりに店を開帳して売っていたようです。売った代金は卸先の店に付けるやり方だったといいます」

その時代を振り返ると、「産直をしていた店が多かったので、商品がどんどん入ってくることで錦市場は繁栄していった」「おかげで終戦の混乱を乗り越えることができた」ということで、皆さんの話は一致した。

仕入れ先を大事にする、産地にこだわる。その伝統はいまも脈々と錦市場に息づいている。

活気を取り戻していった錦市場(昭和40年代)

ヨソでやっている物真似ではダメだ。

活気を取り戻していった錦市場は、その後、さまざまな事業を展開している。
なかでも画期的だったと、皆さんの記憶に残るイベントは「パリコレのファッションショー」、「日本酒祭り」、「鍋祭り」である。

錦小路で繰り広げられた2人のデザイナーによるファッションショーは、錦小路の両サイドに椅子を置き大勢の観客を集めた。
真っ暗にした市場を照明で印象的に盛り上げる演出で、多くのメディアを集めたという。

「日本酒祭り」は40の酒蔵が出店し、錦市場の各店が酒のアテをつくって売ることで人気を博した。

「鍋祭り」は青年部が主導したものだ。洋食や和食など名の通った有名店を呼んで大鍋で独自のものを作って販売した。これらの有名店がみんな錦市場で仕入れている店限定だったところと、錦市場の中で夜の閉店後に開催したところ(従来の夜市からの発展)にアイデアがあったと、4人が4人とも口を揃えて言っている。

それらのイベント以外の事業としては、アーケード事業がある。もともと錦市場は簡易アーケードだった。葦簀(ヨシズ)やテントを張っていたそうだ。

寺町の商店街が先に立派なアーケードにしたので、寺町商店街の人に頼み込んで、いろいろとアドバイスを受けた。それは主に行政への根回しのことだったようで、寺町の人からは「消防署にかけ合うのがいちばん実現が早い」と、言われたそうだ。

アーケードの意匠に関しては、自分たちで独自のものを考えた。
「ヨソでやっているものを真似るのではなく、オリジナルなものをやろう」「ありきたりのものではダメだ」「物語があること」「話題になるものでないと値打ちがない」ということで、ヨソにはないハイカラなステンドグラス、しかも3色の原色を使ったデザインのアーケードが出来あがった。

いまでは、この3色が錦市場のシンボルカラーになっている。インスタグラムにもよくアップされている錦市場の象徴的な風景である。

市場内で行われたファッションショーに大勢の見物客が集まった

宇津会長いわく「アーケード事業はいまから考えたら、勢いでやった
(笑)」というものらしい。

4人の錦市場の先輩方が共通しておっしゃるのは、
「いまはいろんなことをやれているが、これをこの先々もやり続けることが肝心だ」
「次世代の人にも、このやり続けるという伝統を引き継いで欲しい」
「みんなで一緒になって考えて、実行してこられたのは、祇園祭の神輿を一緒になって担ぐことで一枚岩になれたからだろう」
「自分たちが錦市場商店街振興組合の40周年のときに、いまやっておかないと記録や記憶が失われていくと、創立40周年記念誌を発行したように、いま青年部が中心になって『語り継ぐ錦』というこの企画を進めてくれていることに、同じ熱意と想いを感じる」
そんなやり取りで締めくくっていただいた。

この先、どんな話が出てくるのか、何が語り継がれていくのか、この企画に、どうぞご期待ください。

(取材日:2020年12月17日)

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